昭和五十六年一月二十六日 朝の御理解


御理解 第五十節
 兎角信心は地を肥やせて常平生からの信心が肝要じゃ、地が肥えて居れば肥はせいでもひとりでに物が出来るようなものぞ。


 信心の稽古をさせて頂くというが、どこに焦点を置いて稽古をするかと、勿論私共一人一人が信心による幸せを得たい。まあいうならば一人でに物が出けるようなおかげを頂きたい貧争病のない真善美に輝かんばっかりのおかげも頂きたい。そういうおかげをだんだん頂きつつあるのが合楽教会だと思うです。
 ですから、合楽教会に御縁を頂いておる人達はそういうおかげの頂ける信心を焦点にしなければならないという事、只各々自分の願事が成就しさえすればよい、自分の願いがかなえばよいといったような浅はかなおかげではなくて、一人でに物が出来るようなもの、そんな事がと云うその道理をいうならばここでは説いてあります。痩せ細った土地、いわば不毛の地的な信心ではなりません。たしかに地が肥えておれば肥をせいでも一人でに物が出来るようなものという理を説いておられます。信心の上においてもしかりであります。
 願うたから、頼んだからこうしておかげを受けたというのでなくて、願わんでも一人でに物が出けるようなおかげ。昨日は婦人会の方達の例会正月でもございますから、まあ好例になりました、新春の婦人会だけのパーティーのようなことでございましたが、いつも共厳殿でおかげを頂いておりましたが、今年は新館ホールでもう新館ホールが一ぱいでした。成る程一人でに物が出来ていっておるなあというものを目のあたり見せて頂く事が出来ます。合楽の場合は、皆さんがそういう事実を目のあたり見ながら又は聞きながら信心の稽古をなさっておられるのですから、皆さんの上においてもやはりそういうおかげの頂けるように日まさり日まさり年まさりのいよいよおかげを頂いてそれが代まさりともなるおかげを頂く事の為に信心の真を表し、貧争病のない真善美に輝く世界に住まわせて頂く、又そういうおかげの頂けれる信心を焦点にしなければいけません。
 ただそういうおかげを頂く事の為に信心という事になると又そこに今度は信心の焦点がなされなければ焦点に向かってお互いの信心を進めていかなければならない。たとえて云うと皆大きなおかげを頂きたい。どんな地を肥やした所でまあ一反から取れる田圃から十俵なら十俵だから一反より二反、二反より三反、いやそれこそ一町も二町もというような広い大きなおかげを頂く為にはそれだけ勿論心が広く大きくならなきゃならん事が分かります。それをねいうならば、いつの御教えでしたでしょうかね、天地のように生きたい、生きる、生活ですね。天地の心を心として生き方を身につけたい。天地のように生きたい。もういやが上にも心は豊かに大きくなってくる、問題がある。その問題が苦になる、心配になる。はあ自分の心の状態がこのように小さいとたとえば分からせて頂くときにそれをいよいよ大きくしていく一つの根肥しともさせて頂きながらいよいよ心を広めていく豊かにしていく。
 大願の氏子の為に教祖金光大神が身代わりになるとさえある御教が今度新しくそういう御教が打ち出される事になり、その中にそういう御教えがあるという事が先達って聞かせて頂きましたが、成る程広い豊かな大きな心でいうならば天下国家の事も祈らせてもらうという程しの信心にだんだん育っていかなければならない。口で云うだけなら、社会、総氏子身の上安全世界真の平和というのは毎日唱えておる、唱え、詞ことばに終わっちゃ出けん。
 それが一歩一歩それに近づかせて頂く内容を楽しませて頂かなければいけません。昨日、本部の宮田先生がみえておられました。で、先日から泉尾の教会長先生からお手紙を頂きました。そのお手紙の中にこういうものが入っておりましたから合楽の先生にも、これはコピーしてあるのだから、先生も一部差し上げたいというて昨日持って来て下さった。それをまあ昨日読んでもらいましたが、まあ大きな事を云いなさる先生だなあというて感心しながら聞きました。今度中外日報に、まあ大きな事ばっかりというと「ううだこつ」ばっかり云いなさるという意味じぁないんです。ほとほと先生の信心に感心しながらのまあ表現なんですけれどもね。中外日報というのは、これは日本で一番の宗教新聞なんですよね、あらゆる宗教のことが書いてある。それに「今年私はこれをやりたい」というようなテーマでまあいろいろな宗教家に問われているおるそれを三宅先生、泉尾の先生に新聞記者が聞いてそれをそのままここに記事にしてあるのだと思います。「アジア問題主点にお役に立ちたい」とアジア問題をとり上げておられる。
 そしてもうその事に対する、例えばあちらこちらへ行かれるあのまあ予定がずうっと組んであるのをがここに書いてございます。もんただ世界真の平和を祈るじぁなくて自分が実際そこに行ってそしてそこの宗教家達と話し合ってそして世界の難儀、まあこの度はそのアジア問題を焦点にしてというふうに云っておられます。大きいです、祈りが。大きいだけじぁないです、それを実際に自らがその難儀な土地に行って宗教家同志がここに立ち上がらなければならないといったような運動をあちらこちらで起こしておられる先生なんです。小さいことじぁなかもん。
 もう金光教だけの事じぁない。世界中の宗教者が打って一丸となって世の難儀にたちむかおう。云うておられるだけじぁない、書いておられるだけじぁない。実際に自らがそこに現場に行ってそうした働きをなさっておられる。
 成る程教祖金光大神が受けておられる御教えのように、大願の氏子の為に神が身代わりになるとおっしゃる、いうなら三宅先生のその大願、大きな願いに対して、天地金乃神様が身代わりになる程しのおかげをいうなら、泉尾の教会にそれこそ1人でに物が出けるようなおかげとして表されているという事を昨日感じました。そういう話しをしておる所に丁度、昨日、ここの新聞が出けてまいりました。今年の、今月の大変おくれましてね。そりあもう御覧になったでしょうけれども見事な新年号ですからカラー写真でこんな見事な新聞が出けてきているんです。
 そして又これを読んでもらって合楽も大抵大きなこつばっかり云うなあとまあ知らん者が聞いたら思うだろうというような記事で一ぱいなんです。御覧になったでしょう。とりわけこの奉徳祭の時の南米のビルグイ市長のメッセージなんかを読んでおりますとね、本当にまあ合楽は大きな事ばかりいうなあと云われるでしょうけれども私はそれが実感なんですから、又私の祈りはそこに置かれてあるのですから、云うだけじぁない、祈るだけじぁない、もうその実をいうなら南米の地に表そうとまあ今年は合楽会館建設の事なんかもこれに出ております。それをたとえば泉尾の先生が外側から助けていこうとしておられるならば、私はもうそのもう一人一人の難儀というでしょうかね、そこには白人もなからなきゃ黒人もないそこに難儀な人が縁あって金光教の信心に縁を頂かれたらその人達が助かっていってもらうという事を現に実行しているというのが合楽教会じぁないでしょうかね。
 いうならば合楽教会の祈りが大きい、いうなら1反よりも一町というように広がってきた。その実は大して、たいした事はないにしましてもそういう大きな祈りに対して神様が金光大神が身替わりになって合楽の今日の御比礼という事になっておるのじぁないかと思うんです。ですから、合楽教会だけがそうではない、合楽に御縁を頂いておる一人一人がそういう願いそういう祈り、もう少しましな大きな願いに立たせて頂いていうならば問題が皆さんが抱えていられる問題が問題ではない程しの豊かな大きな心を頂いていよいよ天地日月の心をもってといわれる、そういう、いうなら黙って治める成り行きをいよいよ大切に尊ばせて頂くという生き方にいやが上にも自分の心を豊かにしかも、うるわしく大きく育っていく事でしょう。自分の信心がいうなら生長するという事はね、そういう事だと思います。
 昨日たまたま泉尾のそうした中外日報に掲載されておる記事と昨日出けて参りました合楽だよりの記事とを見合わせ思い合わせてみてです、その生き方こそは違うけれども、祈りは同じ難儀な氏子がいよいよ取次ぎ助けられるその場がいよいよ合楽周辺の者だけが助かるというような事ではなくてです現在合楽では南米の地にそれをそういう運動が、運動というよりも神様が立ち上がっておられる。そのお役に合楽が使うて頂きたいと願っておるというような感じですけれども、皆さんの祈りというものも一人でに物が出けるようなおかげを頂きたいならば一反の場で出けるよりも二反、三反のいうなら広大な所から一人でに物が出けるようなおかげにもなりたい、又そういうお育ても頂きたい願おね、だから焦点を変えなければいけんです。不思議です願を切実に大きく持たせて頂きますと、小さい事は今まで問題になっておった事が問題にならないです。こんな大きな願いを持っているんだからこの位修行はもう当たり前と感じれるようになるです。
 どうぞ一つおかげを頂いて今度の合楽だより皆さん精読して下さい。
 そして合楽の願にそわせて頂く信心にならせて頂きたいと願はなければいけないと思います。
       どうぞ